「推理小説の誤訳」

これも週末に手に入れたものだが、手厳しい本である。アガサ・クリスティーのさまざまな翻訳に見られる誤訳を、翻訳者の実名をあげて具体的に論じたものだ。歯に衣着せぬ指摘は、著者が弁護士であり、つまりは翻訳業界と無関係であることにもよるのだろうか、と思った。

私も読んだことがある翻訳や名の通った翻訳者が次々と登場するが、かなり初歩的なミスもあり、ちょっと驚く。また、いわゆる「実用英語」のテキストにはよく出てきそうな口語表現につまずいた翻訳者もいる。

一方、著者のような法律の知識がないと難しいだろうなと思わされる専門的な指摘もあり、私には誤訳とはわからなかった。そのレベルにある一読者として正直に言えば、こうした訳文を読んでも大きく混乱することはほとんどないだろう。しかしプロの翻訳者はそうした態度を取るわけにはいかない(と思っていると信じたい)。

著者は、訳文の日本語についてもいろいろ注文をつけている。多くは「なるほど」と肯かされるが、中にはそれほどおかしくはないのでは、と思った物言いもあった。著者自身の「試訳」にも一部、今の日本語としてはちょっとどうかという気がしたものがある。1927年生まれの著者との世代差によるものといえようか。

いずれにせよ、自分の英語・日本語力を棚に上げて気楽にものを言う私のような読者がいるから、翻訳はつらい仕事であろうと想像する。

さて、ひと通り目を通して特に印象に残った指摘は、earn を単に「かせぐ」「儲ける」ととらえていては駄目だ、ということである。この単語は”ひたいに汗してかせぐ”、”労働の対価に相当する金を受けとる”という意味で理解しなくてはいけないのだそうだ。

ちなみに私の使っている電子辞書や紙の辞書は(先日紹介した「アンカーコズミカ」も含めて)「(働いて)<金など>を稼ぐ」やそれに似た訳語ばかりで、今回の説明からするとどれも今ひとつという感じだ。

手持ちの辞書でもっとも説明がていねいだったのは、すでに絶版になった1958年発行の「岩波英和辞典」で、

- 働いて得る、労力などに対する報酬を得る.~ wages 働いて賃金を得る.~ one's living 働いて生計を立てる

とあり、用例も含めて、単純な「かせぐ、儲ける」ではなく、労働の対価であるということを示した訳語となっていた。

この本は文庫としてはちょっと厚めだが、英語学習書として読みごたえがあるし、アルファベット順に単語・表現を載せて解説しているので、読む辞書としても役に立ちそうである。


推理小説の誤訳
古賀 正義
日本経済新聞出版社

参考エントリ:
充実の「アンカーコズミカ英和辞典」
「岩波英和辞典」の思い出
「翻訳」一覧