カズオ・イシグロの英文を味わう

「英語を読む時は、口や頭の中で音声化してはならない」―その昔聞いた速読の方法論である。その後、英語が情報を知る手段になると、読む速度も上がり、音声化も徐々に減ったように感じた。さらに、速読にこだわらず楽しみで英語を読むようになると、逆に英文の方から美しい音を発していると錯覚することも起きるようになった。そんな体験を最初にしたのが、Kazuo Ishiguro の "The Remains of the Day"(1989年)である。

ふだんノンフィクションや時事メディアを中心に読んでいる私だが、この小説の高い評価と、日本に生まれイギリスに育ったという作者に好奇心を感じ手に取った。イギリスの老執事が過去を回想するという、特に劇的な展開があるわけではないのに先を読まずにはおれない物語、それに平易ながら何とも快い文章に引き込まれた。

そして、読んでいるうちに、架空の朗読者の声が頭の中に響いているように感じられるようになった。その語り手は、私自身は真似もできないイギリスのRP音で読んでいて、空想の世界では何でもありだなと思った。

戯れ言はさておいて、音が聞えるような気になったのは、もちろん、コテコテの書き言葉である論文や一部の社説等とは違う文学作品であること、また文章が(イシグロの作品は皆そのようだが)主人公が語る一人称体で書かれていることがあるだろう。

しかし何より、やはりイシグロが書いた文章の快さが大きいと思う。名文とはいっても、難しい単語や凝った言い回しを使ったそれではなく、平易なことばを流れるように紡いで(英語でも weave という)、まるで音が聞こえてくるような印象を与えているのだろう。

これ以降に書かれたイシグロの作品も読んだが、内容的に "The Remains of the Day" ほどの印象は受けなかったものの、文章はどれもやはり心地よいものだった。そして、このほど久々に読んだのが、順番としては "The Remains of the Day" のひとつ前、1986年に発表された "An Artist of the Floating World" である。

この作品、戦後間もない頃の日本を舞台に、ある画家の日常生活と回想を綴ったものだが、やはり「いい作品を読んだ」という気持ちにさせてくれた。文章も読みやすく、かつ美しい。

この作品、主人公が自己を語りながら過去を回想していくスタイルや、その回想の内容が周囲の人の認識とはズレているらしいという仕掛けは、イシグロの他の作品とも共通しているが、"The Remains of the Day" のすぐ前にあたるためか、2つの作品にはさらに似通った点があるように感じる。

戦争が主人公に影を落としていること、主人公が自分の過去についてしきりに自己弁護につとめていること。そして、主人公は新しい時代から取り残された存在ではあるけれども、最後にほのかな救いを感じさせることなど、などである。

そしてどちらも、作者が直接知らないはずの時代や世界を巧みに描いている。主人公はどちらも老人で、かたや、ドイツに宥和的だった主人に仕えたイギリスの執事、かたや、戦時中に国威発揚のための作品を制作し続けた日本人の画家、という設定だ。

どちらの作品もそうした舞台の描写が見事だが、驚くことに、幼少の時に日本を離れ、以来イギリスで育った1954年生まれのイシグロが、空想で捉えた過去のイギリス、過去の日本というわけである。周囲と微妙にずれている主人公たちに、日本人として生まれ、後にイギリス人になった作者が自身を重ねているのだろうかとも思えてくる。

そしてイシグロは、似た味わいを持つこの2つの作品を続けて著したあと、主人公が一人称体で語るスタイルはそのままながら、肌合いを異にする小説を書き続けている。いくら "The Remains of the Day" が高い評価と人気を得たとはいえ、それと同じ地点にとどまり続けるのをよしとしない、作家としてのプロ意識の表れなのだろう。


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