英訳版「沈黙」(遠藤周作)

本は放っておくと増える一方なので、折に触れて処分するようにしているが、ページがすっかり黄ばんだ遠藤周作の「沈黙」は、ずっと本棚にある。高校生の時に初めて読み、凄い小説だと思った。この作品をマーティン・スコセッシ監督が映画化する予定だと聞いたので再び興味を持ち、今回は英訳のペーパーバック "Silence" を手に取ってみた。

「島原の乱」後のキリシタン弾圧のさなか日本に潜入したポルトガル人の神父は、日本人信者たちが捕らえて拷問にかけられ、苦しみながら死んでいくのを目の当たりにして、必死に祈る。しかし神はそれに応えない。なぜ神は彼らを救おうとせず、沈黙を守るのか。そう問うようになった神父自身、ついに捕らえられ、棄教を迫られる…という筋書きである。以下、ネタばれがある。

キリスト教徒である作者によるこの作品を、特定の信仰を持たない私がどれだけちゃんとわかって読んできたのか、はなはだ心もとない。それでも最初に読んだ時、キリストへの愛ゆえに踏絵を踏み、棄教することによって他人を救う、という矛盾には驚かされた。こうした視点は、キリスト教が日常生活に浸透している社会では、なかなか打ち出しにくいのではないか、また、キリスト教社会といえない日本に生まれたカトリック作家の遠藤周作だからこそ書けた作品ではないか、そんな風に感じた。

この作品には、新約聖書を下敷きにした部分がいくつかあって、それと明確にわかる形で描かれている。例えば、イエスを裏切ったユダに相当するキチジローという人物や、「ペテロの否認」の場面に基づく描写など。これらは人間の弱さを描いた部分であり、作者は、聖書にあるイエス以外のこうした要素にも大きな意味を見出していたのではないだろうか。特にユダとその裏切りをどう解釈するかは、キリスト教世界でもいろいろ論議があるというが、人間の持つ弱さゆえに神父を裏切ってしまうというキチジローの造形は、ユダに対する遠藤周作の考えを示しているかのようだ。

以上書いたことは、これまでもこの作品に感じてきたのだが、今回英語で読んだことによってより印象が強く感じられたのは、日本と日本人についての「醜さ」「不可解さ」についての描写であった。

遠藤周作はフランス留学の経験があるが、「白人の視点から見た日本人」というコンプレックス意識は避けて通れなかったテーマのようで、「沈黙」の日本語原作や、それ以外の彼の作品を読んだ時にも感じていた。特に今回は英訳で読んだため、私自身「外国人はこの作品をどう読むのだろうか」という意識が頭から離れなかったことが、そうした印象を強める方向に働いたのだろう。

そこで自然と、非日本人であるスコセッシが、原作で描写されている日本の村や人びとの貧しさや汚さ、貧弱さ、それに、井上筑後守の残酷さといった側面を、どう描くのか気になってくる。

またキリスト教をめぐる日本と西洋の対立、そして何より、原作では一人称体で表現されていた神父の悩み、苦しみ、沈黙を守る神への疑問といった核心的な要素を、映画ではどう表現するのだろうか、興味をひかれるところだ。


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